【TAROの日記】
絶対悪はあるか?2011/08/02(火) 08:28
息子が、アニメの影響か、学校の影響か知らないけれど、こんなことを聞いてきた。
「お父さん、悪とか善ってないんだよね」
私の回答は、もちろん、
「ある」
確かに、一定の範囲では、善悪は相対的なもの。
私も小学校6年生の時に、アニメ『トリトン』の最終回に驚愕したクチなので、この思想にかぶれている一人。
しかし、絶対悪はある。
その説明に、使った例は2つ。
一つは、ジュリアーノ以後のニューヨークの犯罪減少
もう一つが、日本で起きたストーカーによる女子大生殺人事件の手口
話が終わると、息子が、かなり厭世的な気分になってしまったようなので、
こうした例は、特別なもの。基本的には、人間は素晴らしい。
しかし、絶対的な悪はないという理想だけでは生きていけないのも事実・・・と補足。
さらに、無知な善意が、絶対的な悪になることもしばしばだから、私たちは用心が肝要。
そういえば、息子の話すことが、やたらと自分をどこかに置いた話(いわゆる抽象的な話)をするのが気になった。
例えば、食物連鎖は自然の摂理だけど、その連鎖の流れの中で、『私』が殺されたら・・と考えることの方が、ナンボも重要なのに、抽象的に、植物連鎖だから仕方がない・・と始末をするのが気にくわない。
今の子供ってこうなの?
そんなわけで、彼に一つの問いを出した。
「お父さんが、原発に勤めていたとする。でぇ、原発反対運動で失業したとする。どうする?」
「んーーーーーー」という彼に、
「こういう風に、問題は、いつも『「私』 を真ん中において考えること。そうじゃないと意味がない」
などと父らしいことを言ったのだった。
> 無知な善意が、絶対的な悪になることもしばしば
ひろさちや氏の著書には次のような例が。
殺人は悪だ、と知って殺人する人と、知らずに殺人する人とでは、どっちが悪人か?
普通は、「殺人は悪だ知ってする人」と答えたくなるが、釈尊の答えは違う。
罰せねばならないのは、殺人を悪と知らずに殺人する人、なぜならば、無知ゆえに歯止めがない、誰彼構わず殺しまくるから。
つまり、殺人を悪だと知って殺人する人は、「その人」を殺す理由がある。だから、その理由がなくなれば殺すこともないし、仮に殺したとしても、それ以外に人については、殺す理由はないので、それ以上の殺人はない。
そういえば、地獄への道は善意によって敷き詰められている、という格言もありました。
> 植物連鎖 ⇒ 食物連鎖
私は、大学に進学して間もない頃、「動物が(例えば、サファリパークのライオンが)人間を食ったら、即座に殺されるのに、人間が他の動物を食っても、殺されないのはなぜだろう」という疑問に取り付かれて、約半年間、動物性たんぱく質が食えなくなりました。
梵語の仏教説話を読むまで、この状態から回復しませんでした。
人間だって状況が変われば、ただの蛋白源でしかありません(例:映画「ジョーズ」)。そのときは、黙って食われるしかありませんね、もちろん、イヤだけど。
宮部みゆきの「英雄の書」を思い起こさせる話ですね。