【TAROの日記】
数字って奴2006/11/09(木) 07:26
「どう反応しようかなーぁ、メルマの方かな~」なんて思っていたら、大閑動人さんのレスが入ったのでちょっと反応します。
まずは、村中さんの発想にうなりましたね。
考えたこともなかった。
と同時に、この疑問は、私が「日本人はいつ天動説を受け入れたのか?」という疑問を持ったときのものと似ていると思いました。
何と言うか、国語の試験に数学の知識を持ち込むような。そんな感じです。
西洋は西暦だけど、彼らの西暦が私たちの感覚と同様の西暦に理解がされたのは、インドからゼロが入ってから。それまでは、XVIIなんてやってたわけで、これは、『リスク』という本でバーンスタインがページをローマ数字でつけるという暴挙をして、ふーんとみんなが思ったところです。
XXXVVIIなんてやっているのも、文治元年なんてやっているのも、違いがない可能性もある。
調べはここらへんからつけていくべきかな?なんて思いました。
もう一つは、私たちが今の時間という概念をいつ手に入れたかですね。
今の私たちと昔の日本人が果たして同じ時間概念を持っていたのか?
まぁ、上記疑問の言い直しでしかないのですが、そんなことも思います。
ところで、私は昔、日本の総理大臣とアメリカの大統領をすべて順番に言うことができました(高校生の頃、何考えていたのかね・・?)
すでに、今の時間概念を手に入れている私には、100%の比較はできませんが、首相や大統領の無機質な並びにはちゃんと独自の時間概念があります。
これは経験したものにしかわからないと思いますが確かにあります。
でぇ、そういうことを考えると国語の問題に数学で答えようとしていないか?という疑念を持つわけです。
とりあえず・・。
あー、時間がなーーーい!
出かけるぞ~。
ありがとうございます。
とても貴重なヒントを戴いたような・・・
>首相や大統領の無機質な並びにはちゃんと独自の時間概念があります。
歴史とは、history=His’story つまりは「物語だ」と喝破した人が居ましたが、タローの記憶も、物語と絡んでいたから、無機質な時間感覚に陥らなかったのでしょう。
すごいと思います。
やっぱ、「超異端思考法」(トルネード・佐藤)だけのことはある!
最後にお願い
大閑動人、ではなくて、大閑道人、です。
すごいヒマ人の意味です。
「江戸時代の人間は大化の改新を何年前だと思っていたのか」という疑問をご評価いただき有り難うございます。
以下に、今後、いつかこの疑問の回答と出会うための手がかりを備忘録がわりに記してみました。
長いコメントとなり恐縮ですが、このページはリンクは使えないようなので、ご容赦ください(トラックバックというのはやり方がよくわかりません)
*** 源氏物語
日本文学の代表作「源氏物語」の書き出しは、「いづれの御時(おんとき)にや
あらむ(いつの帝の御世であったか)」である。紫式部は、今から語る物語の時
間を示すのに、天皇を使っている。
*** 派生質問
「江戸時代の学者に、大化の改新は何年前だと質問したとして、なぜそんなことを知る必要があるのかと返事されたりはしないか」
「江戸時代に”年表”はあったのか(国立古文書館に行けばあるか)」
「それはどんな形式で書いてあるのか」
「年表があったとして、それは何の用途に使われていたのか」
「はじめて西暦と出会った日本人は誰か(鉄砲伝来と同時ぐらいか?)」
「その日本人はどう思ったか(何とも思わなかった?)」
「シーボルトは、長崎で、日本の歴史年表を作ったりしなかったか」
「西暦による日本史の年表をはじめて作ったのは誰か?」
*** 派生質問2:
「紀元前のローマ人はペロポネソス戦争を何年前のことと認識していたのか」
*** 私見
人間の時間感覚の基本は、おそらく「アフター・ザ・○○」であろう。
西暦は、アフター・ザ・キリスト
イスラム暦は、アフター・ザ・ヘジラ(聖遷)
現代日本人の時間間隔は、戦後○○年
今、世界を覆う時間間隔は、アフター・ザ・9.11
個人もそう。
結婚して○○年、上京して○○年、就職して○○年。起業して○○年。
江戸時代の時間感覚はもしや、
アフター・ザ・関が原か?
*** 参考資料1
司馬遷は、史記により、中国(および日本)の歴史感覚を「発明」した。司馬遷が史記の叙述を開始したのは紀元前104年。武帝が大初という年号を建てた最初の年である。この年の陰暦11月(子の月)の朔が六十干支の最初の甲子の日であり、しかもこの日の夜明けの時刻が冬至であった。これは中国の暦学でいう、宇宙の原初の時間と同じ状態(甲子朔旦冬至)が到来したのである。このとき、司馬遷らの提議により、暦法を改正することになり、「大初暦」が作られ、それまで念頭であった十月(亥の月)に代わって、正月(寅の月)が年頭となった。
大初とは、天地創造というのに等しく、宇宙の一サイクルが終わって新しいサイクルが始まったことを示す年号である。
司馬遷が「史記」の著作に着手した契機が前104年に宇宙が原初の状態に戻り、歴史が完成に達したという認識であったことは間違いない。
*** 参考資料2:
マヤ文明には、精密な暦があって、前114年8月11日を時間の基点として、そこから14万4000日(394年余り)をひとつの周期として、数千年の長い期間にわたる日付を正確に表すことができた。
*** 参考資料3:
ユダヤ教やキリスト教では、「旧約聖書」をもとにして天地創造の年代を計算した紀元が何通りもあった。
その一つは、前5509年にヤハヴェ(エホバ)の神が天地を想像したとするもので、ロシアでは、ツァーリ・ピョートル一世の時代の1700年1月1日まで使われた。
以上、「世界史の誕生」岡田英弘 より。
*** バガボンド14巻?18巻では、佐々木小次郎の少年期?青年期の成長過程が書かれているが、これを読んでいると、ある出来事が何年前なのかといった年表感覚が頭から洗い流されるようだ。
しつこくて恐縮ですが、今でもこの問題にこだわっています。以下のような記述を見つけました。
江戸時代には「天皇年号」とは別に「九州年号」があったそうです。
http://tiao.jp/blog/archives/cat48/
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私が子供の頃、わが国における年号の最初は、孝徳天皇の時代の「大化」(六四五?六四九)からと教えられた。そして「白雉」(六五〇?六五四)と続き、その後断絶し、「朱鳥」(天武十四年、六八六)が一年だけ存在し、「大宝」(元年は文武五年、七〇一)から現在の平成まで連綿と続いたとされている。これがわが国における一般的な年号教養であろう。元号の使用や法制化への賛成・反対を問わず、こうした理解が不動の通念として、明治以後の公教育の絶対的指針とされてきた。もちろん、戦後民主教育においても、この点、微動だにしていないところ、周知の事実である。
江戸時代はそうではなかった。鶴峯戊申や藤井貞幹、貝原益軒など天皇家の史書に見えない年号の存在について論じ、著していた。たとえば、鶴峯戊申は著書『襲国偽潜考(そのくにぎせんこう)』において、六?七世紀にかけて九州地方で使用された古代年号群を紹介している。鶴峯戊申はそれら古代年号群を古写本「九州年号」という書物から写したと述べている。このように江戸時代の学者達は天皇家以外の権力者が公布使用した年号について自由に論じ合った。
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