【大衆食堂の人々】
村の運動会2008/10/20(月) 05:30
この間、村の運動会があった。
私が忙しくて、ほとんど家にいないので、妻が体育委員に選ばれた。
体育委員に女の人が選ばれるのは異例らしいが、まぁー、私よりも村では顔が広いので、岡本家では彼女の方が適役だったりする。
ところで、彼女が体育委員になって運動会の準備を始めると、彼女が会合などで感じる矛盾が我が家に怒りや不満のループとなってもたらされる。
たとえば、
「本当は、あなたがやるべきなのよー」
とか
「どう考えても、おかしいことが多い・・・」
とか・・。
グチがはじまる・・。
こっちはこっちで仕事が忙しい。
彼女が外から持ってくるストレスは、家の中で熟成されるだけになる。
さて、こうした「地域の親交を深める」ということ。聞こえは良い。
しかし、実態はどうなのか?
すでに破綻しつつある。
そして、役割が回ってきた者とその家族だけが犠牲になる。
「たてまえ」はよい。
やってみれば意義もある。
でも、なにか納得ができない部分が残るのはなにか?
表向き正しく見えるものって厄介。
その背景にある暴力性も絶大。
そもそも、こういうこを言うと、「そういう自分主義的なことを言う人が増えるから、地域社会が崩壊していくのだ・・・」的なことを必ず最初にのたまわれることになる。
でも、そんなことを言っても意味がない。
むしろ、こうした表向き正しく見えるものが反発を招き、地域から遠ざかる心を作っている・・という面もある。
事実、私の周辺には、そう考える人が多くいる。
人は、必要ならば、やるのだ。
自然に任せておけばいい。
毎度のことだが、リベラリズムとリバタリズムの溝は深い。