【無理に哲学】

2006/08/17(木) 07:13

「ich」

「ich」というドイツ語は、「わたしは」。
大文字になって、「Ich」になると、「”わたし”という存在(?)」。

ヴィトゲンシュタインやフランクルが言った「わたし」は「Ich」なんだな・・・。

などと、あるドキュメンタリー番組のディレクターの話を聞いて思った。

ドキュメンタリーって言うと、原一夫の仕事や亀井文夫なんていう人が有名だけど、通常、あまり作り手が見えることはない。だから、話は非常に興味深いものだった。

でぇ、ドキュメンタリーって、結局、「Ich」の問題なんだと思った。
途中を端折って、いきなりだけど、そう思った。

それで、気づいた。
果たして、ブログやWEB2.0的なものは「表現」の手段なんだろうか?と・・・・・・・・。

本格的な「表現の時代」は来る。
それには、高校生や中学生が大人になって、イニシアチブをとるまでかかるから、後数年は要する。

そして、今は「表現の時代」ではない。
これは一度終わる。

・・なんて思っていたわけだけど、どうも「表現手段」であることを疑った方がいいと思った。

要は「Ich」の問題なのだ。
「あなたが見る私」の問題なのだ。

だから、「あなた」は、「迷惑な私」を見せられる羽目にもなる。
そりゃ、仕方がない。
だって、セラピーなんだもん。

でもって、「見せる成功」というナンセンスなものの存在意義も見えたし、巷に氾濫する「結果論だけ」のビジネス書の存在にも同意できた。

勝手に想定した「あなた」が、「迷惑な私」を面接する。
「見られた私」は見られることで、「私」を取り戻す・・・・・・・。

あらら、新しい道具の意味は、こういうことか・・。

断定する気はないけど、一面だな。

ところで、そんなことを書く「私」はナニ?

少し、沈黙して目をつむる。
降りてきた文字は「義務」。

又は、「とらわれ」とも言う。

「「ich」」へのコメント(0件)
  1. 見事な分析だと感じ入りました。
    この分析は、利用させていただきます。
    感謝!

  2. 見事な分析だと思います。
    想定された見られたい「私」と、同じく、想定された見てもらいたい「あなた」
    私は、「他者とは、なりそこなった自分のこと」と考えているので、このことをもっと分かりやすく表現していると感じ入りました。
    勝手ながら、他で活用をさせていただきます。

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