2015 - 2016
年末のご挨拶(2015年末)
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新しくはじめるということを忘れてしまわないならば、
老年というのは一つのすばらしい事柄である(マルティン・ブーバー)
今年の年末のご挨拶は、個人的な吐露ではじめようと思います。
今年はとても不思議な年でした。
何かの力に誘導されて動いていた・・・。
今になって、そんな一年だったなーと感じています。
本人は、いつもと同じような年を過ごしただけなのですが、その動きには
一貫してテーマが佇んでいたのです。
そのテーマは、秋に入って突如浮上しました。
何人かのお客さまの悩みに対応し、その悩みの共通項に気づいた時、そのテーマが、
私自身が無意識にも追いかけてきたことだと了解してしまったのです。
そして、そのことに気づいた時に、
私の美観とは真逆のはずである「20+1周年記念」のセミナー・マラソンを
行ってきたことや、その他諸々の行動の意味がわかってしまったのです。「欲望」
私が無意識にも追いかけてきた、追い詰めてきたものは、コレです。
今年は、自らの新たな「欲望」の行き場を探り、その方向を定めた一年でした。
振り返ってみると、50歳を過ぎてからの私は少し涼しげに生きてきました。
少し余裕が出てきたのと同時に、年齢による衰えも感じていましたから、
無理にがむしゃらになる必要もなく、
状況の変化を楽しみながら過ごしてきたわけです。
しかし、同時に、涼しげに過ごすだけで残りの人生を終えるつもりのないことも
はっきりしてきました。
そこで、私は無意識のうちに行動に出たように思います。
それも無目的極まりない思いつきの行動を開始したのです。
それが「20+1周年記念」の冠をつけた一連のセミナーなどでした。
ところが、ほぼ計画にしたがって行動をやり終えてみると、
そこには次の「欲望」が佇んでいたのです。今、冒頭のマルティン・ブーバーの言葉をかみしめています。
確かに、老年というのは一つのすばらしい事柄だと思います。
経験と知識を手に入れた老年一歩手前の脳みそはフル回転です。
足りないのは「欲望」だけだったのです。
そして、小さくはありますが「欲望」を手に入れた今、最早、居ても立っても
いられないのです・・・・・。
おそらく、これからの成熟社会で必要なものは、純度の高い「欲望」だと思います。
社会には、つまらない他者の言説を受け入れただけ夢が蔓延していますが、
私たちにはどうでもよいことです。
私たちは、ただ「欲望」の純度を高めればいいのです。
そして、そのために、毎日行動し、自らに問うのです。「欲望は連鎖しているかい?」
今年も大変お世話になりました。
また、次の「一年」がはじまります。来年もよろしくお願いします。
2015年12月29日
年始のご挨拶(2016年1月1日)
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あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。
日本人が知恵を失ってどれくらいが経つのかわかりませんが、
2010年代に入ってからの私たちは、その失った知恵の精算を順次迫られています。
昨年の鬼怒川沿いの災害やその前年の広島の土砂崩れにしても、
2011年の大災害から続く災難は、知恵の喪失から起きたものだと思います。
歴史好きの私は、鬼怒川沿いの造成地など絶対に買いません。
あの土地や関東平野の過去がどういうものであったかを知っているからです。
そもそも、少年時代の私は亡き父から土地に限らず生活に必要な教えをいろいろと
受けてきました。
それらの教えは、決して「儲ける」とか「得をする」とか「優位に立つ」という種の
ものではありませんでした。
教えの多くは、「危険回避」に関することでした。
少なくとも、父の教えはそうでした。
おそらく、私が知る程度の「危険回避」では、
これから日本人が遭遇するすべての危険は避けられないと思います。しかし、時代が変化の少ない安定期から、
ボラティリティーの大きい激震期に入った今、
そうした知恵は、いくらかの助けになるはずです。
過去の先達は、多くの知恵を私たちに残してくれました。
中には、時代遅れに見えるものもありましたが、それらが今一度、
私たちにとって必要不可欠なものになっていくはずです。
自然、経済、ビジネス、人生・・・における災害常態化の時代がはじまります。
用心に用心を重ねて慎重に歩んでいくことがスタンダードになります。しかし、「用心の時代」という世相とは逆に、
これから時代は益々楽しくなっていくと思います。
なぜならば、私たちは少し不安な方がいいのだと思うからです。
その方が創造的だと思うからです。
少し不安を持って、用心するくらいのほうが、実は「無敵」なのです。
個人的に思っている「楽しさ」をうまく言語化できず、こんな言い方しか
できませんが、きっと素晴らしい素晴らしい一年になるのだと思います。今年もよろしくお願いします。
2016年1月1日