月: 2008年4月
【TAROの日記】

2008/04/15(火) 05:37

飛行船(2)

どうもレッドツェッペリンは再結成ツアーを敢行する模様。
それとはまったく関係ないけれど、乗った飛行船の名はツッペリンNT号。

何も過去に落ちた飛行船の名前をつける必要はないのでは?と持ったけれど、”日本丸”とか”21世紀号”なんてのではどうかと思うし、”クリスタル・エア号”とか”ワンダフルライフ号”なんてのでも困るので、これでいいんでしょう。

ネーミングは素直が○です。

【TAROの日記】

2008/04/14(月) 05:36

飛行船(1)

今年の『ワイガヤセミナー』は飛行船の上で挙行!!

大阪上空を12名乗りの風船で飛ぶというのは贅沢。
一人あたりの乗船額は軽く海外旅行に行ける金額。

それをニュースレター投稿者6名にプレゼント(1名欠席)。

よーくわかったことは、飛行船に乗るということはちょいとしたセラピーだってこと。

それを予測して課題をみなさまに与えたのだけど、想像以上にそうでした。

【TAROの日記】

2008/04/11(金) 05:50

境界線(5)

「ひきこもり」になったことがないので、よくわからないけれど、あれは「自分」という病気の保存本能なのかな?

境界線があやふやになるのって怖いから、一生懸命ひきこもって自己保存しているのかもしれない。

でも、境界線があやふやで、動くと自分がばらけてしまいそうだから、じっとしているのかもしれない。

まぁ、そのどっちもなのだろう。

では、個人的には、前者よりも後者が好き。
境界線があやふやで、それがあやふや過ぎちゃうので、じっとしているというのには可能性を感じる。

ところが、あやふやになるのが怖くて、じっと安定を保っているとすれば、その先には滅びしかない。

ひきこもっていなくても、そんな感じの人はたくさんいる。

・・・・・・・・と「自分」という境界線のあやふや感を感じたら、思ったのだった。

田舎は、これからが桜の時期。
桜の花が織りなす境界線のあやふやは、酒の肴に良い。形を守ったら終わりなのだ。

自分に起こるあやふや感は怖い。でも、これが生きるということなんだね。

【TAROの日記】

2008/04/10(木) 05:49

境界線(4)

私という病気のことを考えていたら、会社も病気のような気がしてきた。

そう考えると、トヨタという病気はなんか凄みがある。
もし、あれをみんなが病気と認知したら、ゴジラみたいなものだな。

会社にも境界がある。
経済学では、会社の境界というのは重要な概念だ。

しかし、この境界もあやふやだ。
と言うか、境界があやふやな会社の方が業績が良いときたもんだ。

そういえば、昔、ヘドラという怪獣がいたよな。あれは、境界があやふやな怪獣で、1971年にゴジラと戦ったオタマジャクシだった。

きっと、トヨタというゴジラと戦うのはヘドラのような会社だ。
まぁ、映画ではヘドラは負けちゃったけどね・・・・・・。

【TAROの日記】

2008/04/09(水) 05:41

境界線(3)

「自分」という境界線のあやふやが極端になる病気に統合失調症というのがある。

その病の中で安定すると、チャネラーやらイタコやら教祖様になってしまう場合もある(教祖様たちの全部が病気だと言っているわけではありませんからね)。

しかし、そうした病が本当に病なのかどうかはわからない。

芸術家の創作は、こうした境界線の危うさから生まれる。

「自分」が、ガチンと確立していると創造性は生まれない。

だから、安定している方が病の可能性がある。

私とは、きっと病気なのだ(あらら、中村うさぎじゃないか!)。

【TAROの日記】

2008/04/08(火) 05:45

境界線(2)

隣の家と自分の家の境界線なんかも意図的なものだ。
別に、正確には言えないはず。

田舎に住む私の家の土地なんて、境界線がいい加減なために売買できない部分がある(じゃー、おまえはどうやって手に入れたんだーぁという疑問はここではナシということで・・)

地球だって、どこからが地球でどこからが成層圏なのかはわからないし、海と陸の境界もそう。

一応約束事として境界は設けているけど、あんな怪しいものはない。

そうすると、「自分」という境界線もあやふやが当たり前で安心していいのでは?

それどころか、境界線を意識すると、途端に問題は増えるような気がする。

【TAROの日記】

2008/04/07(月) 05:40

境界線(1)

「自分」という境界線。
この境界線が強固なものではないことを知ることが時々ある。

久しぶりに、そんな時期に突入したかも?(春だからか?)

「揺さぶり」は、時に大きく、時にジワジワとやってくる。

そういえば、『仮面ライダー龍騎』の鏡の国では、仮面ライダーのベルトがないと体が泡になってしまったけれど、あんな感じだな。

「あなたは誰?」「私は誰?」
という問いは、こうした境界線の危うさから生じるのだろう。

これは、きっと「自分」の液状化現象なんだろう。

次のために準備。新たな「自分」の獲得。
そういったことの始まりなんだと思う。

【TAROの日記】

2008/04/04(金) 05:46

カラオケ(5)

・・とカラオケについて勝手なことを書いてきましたが、今も日本の正しいサラリーマンにとってカラオケは”たしなみ”の一つなのでしょうか?

演歌しかない時代とは違い苦痛は少ないかも知れませんけど、アレがサラリーマンの”たしなみ”として今も君臨しているとしたら悲しいですね。

でも、時代は変わっているんでしょうか?
今はそれほど強要されている雰囲気を感じません。

当社のスタッフも時々カラオケボックスに行っているようですが、どうもアニメソングを合唱している状況のようで、私なんかがサラリーマン時代に憎んだカラオケとはまったく別のもののようです。
そういう点じゃ、今の若者たちは幸せですね。
ちゃんと正しい利用の仕方で楽しんでいる。良いことです。

でぇ、同時に、カラオケはより携帯電話に近い性質になっているのかな?

しかし、いつも大音量でステレオを聞いて育ってきた私に偉そうなことがいえるのかどうか?
それも、この年になっても大音量でステレオを聞いていますからね。

考えてみると、カラオケや携帯電話、ステレオといった個人的嗜好のツールは、正常な人間を統合失調症的気分に誘う道具なのかな?
間違いなく、明治時代あたりの日本人が見れば、私たち現代の日本人は、誰もが統合失調症に見えるかも?
パソコン相手に、こうして文章っているのも、そんな症状の一つかもしれません。

【TAROの日記】

2008/04/03(木) 05:20

カラオケ(4)

ところが、携帯電話の話では誰もがわかってくれそうな話もカラオケになると、「ちょっと考え過ぎじゃなーい!」「たのしもーよー」なんて言われるのが落ちです。

そして、そういう人の方が正しいでしょう。

でも、あんまり好きじゃない人の考えているところには、こんな感じの思考があるよ!というのも事実です。

ただ、そういう考えを全て踏まえて、それでも・・と考えたとき、カラオケをいかに「自己愛表明増幅蔵置」から解放してあげられるかを考えたいなーと思います。

たとえば、4つくらいのグループが飲んでいるスナックで、AグループのXという男が、カラオケをエンターテイメントの道具として使い切って4つのグループ全員から喝采を浴びるなんて場面もありうるわけです。

こういう場合、カラオケは単純な「自己愛表明増幅蔵置」ではなくなって、とってもお茶目なツールに変身します。

しかし、こういう境界線がめんどくさい、だから近づかない。
でも、みんなでカラオケ楽しみましょうね!という場でただボーッとしているわけでもないというのが個人的なスタンスで、そのスタンスでいたら、全然歌うことがないということになって今日に至っています。

46歳のおじさんでカラオケを歌った回数少ないコンテストというのをやれば、ベスト100くらいには入る自信ありますね。

【TAROの日記】

2008/04/02(水) 05:11

カラオケ(3)

たとえば、若者が多い飲み屋さんで、おじさんが演歌を永遠と歌っているというのも、大きな独り言に近くないでしょうか?

それは大げさにしても、カラオケという道具を真ん中にして遊ぶ約束事がある場合、たとえばカラオケボックスに友達と行くというような場合は、テレビゲームを一緒にやるのと変わりませんから、何ら問題がないんですけど、スナックのような場所で好きな歌を大音量で歌うということは、知らない人の周りで大きな独り言を言う少年と大して変わらないと思うんです。

周りが全部知り合いの場合も、”自分の話”だけを話しまくる自己愛の強い人間とあまり変わらないかな~という思いが残ります。
さらに、人に無理矢理カラオケを強要する人は、「オレが歌いたいんだよ!」というメッセージをそうやって伝達しているわけで迷惑以外の何者でもありません。

考え過ぎかも知れませんが、お店でカラオケという図には、いつもそんなことを瞬間的に思っちゃうものがあります。
つまり、携帯電話を小声で話してすぐに切ってしまう人と同じような態度になってしまうんでうね

2008年4月
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
282930  
ページトップヘ