月: 2012年5月
【TAROの日記】

2012/05/30(水) 08:26

本屋にて

先週、国立演芸場の近くの本屋に入った。
考えてみると、久しぶりの本屋である。

前日には、タワーレコード渋谷店に久しぶりに入った。
それは、それは久しぶりのタワレコである。

私は、いつの間に、これほどに、本屋やCD屋に行かなくなったのか・・と驚いた。
「いつの間にか・・」というのは怖いものだ。

amazonというネット上の怪物のおかげで、ずいぶん、私の習慣は変わっていた(本屋なしでは生きられなかったはずなのに・・)。
ここについては、またどこかで考えたいのだが、そんなことを考える前に驚いちゃうことがあった。

入った本屋では、まずは、自然科学の本が並んでいた。
これが、ワクワクしちゃうくらいの棚で、私は瞬時に3冊の本に目がいった。
そして、「やっぱり、本屋には来なきゃいけない・・」と思うのだった。

この本屋の棚は良い・・と直感した私は、いろんなところを巡った。
そして、最後に、ビジネス書のコーナーへ。

驚いた。
ここだけ別世界なのだ。
一言で言うと、カスなのだ。

カスの山の中で、有名女性評論家の顔出し本が目に入った。
タイトルだけで、カスとわかる数々の本の中で、この本の帯が鳥頭さんだったので、思わず手にしてしまった。
そして、前書きを立ち読み。
実は、この人の本は初めて読んだのだが、なんだ、この本は・・・・・・・・。

ビジネス書はどういうことになってしまっているのか?
いつからビジネス書が自己愛の表出の手段と詐欺、シロウト理論の坩堝になったのかはわからない。
それにしても落ちるだけ落ちている・・・・・・だな。

でも、これが日本の部分であり、全体だ。
世の中の構造そのものだ。

私が感動した自然科学の棚は、考えてみると翻訳本ばかりだった。
渡辺昇一の『知的生活の方法』で、知的生活の大衆化がはじまったと私は思っているのだが、そのなれの果てってのは凄かったんだな。
私が好きだった心ある出版社の最近のラインもおかしくなっているし・・。

本なんて、5000冊売れればいいのだ。みんなが大振りをやめない限り、改善はないな。

【TAROの日記】

2012/05/29(火) 08:23

精神科医と”おみくじ”

昨日、精神科医を仕事とする人の本を2冊読んだ。

1冊は、告発本。
精神科医の診断は99%が誤診だ!と言う、「そんなこと知っているよ」という本(でも、精神科医が自分で言うのは意味がある)

もう一冊は、一連の素人でも本出せますよ!ブームから出版コンサルタントという仕事の人にお布施を与えて出したらしい本。あ、そんなことはどうでもいい。肝心なのは内容。んー、お布施本だけあって、自己満足な本(私も人のことなど言えないが・・)。

たまたま精神科医2連チャンだったが、この2冊を読んでわかることは、この2人の精神科医には時間がなかった。または、素人向けにあえて簡単に書いた。または、精神科医なんてのは、著者自身が言うくらいに何も知らない・・のどれかだということ。

私は、あまりの内容のお粗末さに、読むのが楽で良かったが、いったいぜんたい専門家という人って本当に専門家なのか?と思ったりもした。

けど・・・。考えてみれば、税理士のセカンドオピニオンなんてことを仕事でやっている関係上、「しんじられなーーい!」という税理士の仕事はたくさん見ているし、稼ぐ人は長い財布を使う・・などというくだらない一般化をしている税理士の本を本屋で発見して驚いたりもしているので、別に最早びっくりすることでもない・・と気持ちを落ち着ける。

でぇ、世の中の専門家にお願いがある。
「私は本物です」という人は、金額を法外に上げて欲しい(自己申告でよい)。
そうしないと専門外の分野では判断がつかない。

“おまじない”レベルの専門家には、おみくじ並みの料金で、
ちゃんとした専門家には、サービスに見合った(高い)料金を・・・。

ところで、机の上に、上記2人以外のもう一人の精神科医の本がある。
んー、まだ数ページしか読んでいないのだけれど、レベルが天と地。
どうして、こういう人の本が上記2冊と同レベルの価格なのだ!!

今の資本主義は、あまり価格機能が働いていない。お買い得とゴミがグジャグジャだ。
このままでは、悪貨が良貨を駆逐してしまうな〜。
旦那制度の復活しかないではないか・・。

【TAROの日記】

2012/05/28(月) 08:37

あらためて、反復・・ということ

やーーーーーーっと帰ってきた。
5月は、ほとんど家にいない。
明後日には、再び東京である。

なんだか、いつも似たようなことを言っているけれど、この怒濤のような仕事の反復の中で、微妙な変化はある。

一言で言うと、とても疲れる・・ということ。
マラソンの途中で息が上がりそうになるような現象が時々起こる。
マラソンのように、そこから復活してゴールとなるならいいけれど、仕事ではそのまま疲れてゴール。そして、バタンキュー。

頭の回転も確実に遅くなっているようで、移動時間の仕事がまったくできない。
やってはみるものの頭が働かないのだった。

・・・と書いていると、晩年の談志家元のマンマだな。
高座に上がると、彼はグチからはじめた。
睡眠薬をビールで飲む話を毎回聞かされながら、別に、「毎回同じ話するなよ・・」と思うこともなかったな。

しかし、このブログで同じ事をやっているのはひんしゅくものだろう。いくら読んでいる人は少ないとはいえ、それでもアップしているのだから、誰かが読んでいる。
ところが、書くことなんて似たようなことになる。
その理由は、簡単で、こういうものを書くのは一人作業だから。ここがセミナーなどとは違う。
私のセミナーは同じタイトルでも内容がかなりかわる。それは、参加者が違うから。そして、その環境の違いが私の中に変化を起こし、毎々、底流に流れるテーマが変わる。
「そんなんでいいのか」という意見もあるとは思うが、私にはそれしかできないし、それが誠意だと思っている。

ところが、こういうところでの独り言では、そういうことは起きない。
そして、晩年の談志みたいな枕話とあいなる。

まー、昨年行った『なんちゃって自己啓発セミナー』でも、テーマの一つにしたように、私たちは、ロボットみたいなものだ
誰かにプログラムされたままに、周期的に動く。そんな存在でしかない。
ここら辺のことは、押井守は映画『イノセンス』で、そして長塚圭史は舞台『アンチクロックズドワンダーランド』で挑戦したテーマだ。

ただ、彼らがそのテーマで入れ込まなかったことがあると思う。
それは、私たちには、アンインストールをする余地があるということ。
ここも、『なんちゃって自己啓発セミナー』のテーマの一つだった。
実は、インストールよりもアンインストールの方が重要なのだ。

晩年のオカモトというのが存在するとすれば、そのオカモトの作業は、そこだろう。
もちろん、今までも意識的だったけれど、それがさらに意識化されることは間違いない。

アンインストールには、時間という要素がかなり大きな要素になる。
時間と意志が変数と言い切っても良いか?

しかし、昨日は、疲れてフニャフニャしていたら、結局、酒を飲んでしまった。
どうしても、インストールが優先するのは性だな~。
ここんところもアンインストールしないとね。

【TAROの日記】

2012/05/15(火) 08:46

不思議な楽観

今日から、合宿セミナーのために軽井沢入り。
来週も全部東京だから、今月は新潟にほとんどいられない。

昨年の3月11日を思い出す。
あの時も、軽井沢でセミナーをやっていた。
日本は、あの時を境に本当に変わってしまったんだな〜と感慨深く思う。

同時に、街などの定点観測をしていると、テレビなどの悲観的な報道とは次元の違う
厚くて深い日本人のパワーみたいなものを感じる。

10年前と比べてみてもいい。
例えば、渋谷の街や新幹線の車両あたりを比べるので十分だ。
何かが違うはずだ。

それを考えると、何が起きているのだろう?と思う。
過去の日本人の作った構造に乗っかってるだけなのか?
それとも、新しい動きのなのか?
全然、そんなことと違う何かが起きているのか?

ただ、感じるのは悪い方向にはないという感じ。
むしろ、良き方向。
まだ、観察を続けるしかないけど、自分の中に不思議な楽観が芽生えている。

政治はサイテーだし、大企業もダメなのに、なぜかな−?

追記
明日より来週末まで、再び、ブログは沈黙します。

【TAROの日記】

2012/05/14(月) 07:54

睡眠預金2

自分でも「おかしいな−」と思いつつ、”休眠口座”を”睡眠預金”などと書いていた。
最早、サラリーマン時代は遠いのだな〜と思った。
そういえば、最近は、実務がないので、手形や小切手の知識、金融法務などの知識もあやふやである。

昨日の出張帰りに新幹線の中で、サラリーマン時代に働いた部署のことを思い出していたのだけど、働いていた部署の記憶があまりない。
「オレって、どこで働いていたのだ?」と思いつつ、意外な人のことを思い出したりもして、人の記憶というのは、筋道立てて思い出すことができないことをあらためて痛感する。

あのオレの過去は、最早、どこにもないのだ・・・・と思いつつ、しかし、そのどこにもないものに自分のリソースがあるという・・事実に、人という存在の面白さを感じたりするのだった。
まー、人もカゲロウみたいなものなんだな。

しかし、カゲロウではないから、リソースの確認が必要だ。
あやふやなものが自分のアイデンティティの元ということは、アイデンティティなんてどうでもいい・・ということとマメに確認しなきゃいけないよ・・という2つの矛盾した狭間で、どっちでも選べるようになっている。つまり、人は、そもそもがとっても自由な存在なのだ・・ってことになっている。

ところが、人は何かすがるものがないと不安だ。
だから、過去にすがる。あやふやでも過去は過去、リソースはリソース。
まー、それも自由だから、どうでもいいけど、そこんとこの微調整が人生を決めてるのだろうなー。

“休眠口座”を”睡眠預金”と言ってしまう私のそこら辺の過去は、今の私にはどうでもいいのだ。
それでも、私のリソースだから、私のご都合主義は、そこを利用するときもある。
しかし、使えるリソース(過去)は増えるけど、使える時間は減っていく。
今は、ちょうどその均衡点なんだろうな。
そこは、十分に利用しないといけないね。

【TAROの日記】

2012/05/11(金) 08:38

睡眠預金

今頃ですが、睡眠預金を使うとか使わないという話を知る。

これって、かなりバカな話だよな。
今だって、使ってるじゃん。
銀行が買っている国債の反対側には、睡眠預金も入っているじゃないのね。
これを改めて、供出させて機関なんぞを作れば、かえってコストアップ!!

睡眠預金の益金ルールは今もあったと思うので、その定義をさらに厳粛にすればそれで終わる話が、報道されたようなお話になって物語となっていくのはどういうことなのだろうか?
日本人に、あわい埋蔵金幻想を強化させようというのかな?

なんだか、あまりにも素人臭すぎる話に、あきれることしかできない。

おそらく、日本という国は、こういうレベルの話がたーーくさん真面目に話されているんだろうね。
本当に、こわいは・・。

追記
昨日、「資本主義」という言葉と表現しましたが、正しくは「近代資本主義」という概念という方が正しかったです。
ちょっと荒っぽい書き方ですいませんでした。
なお、この件に関して、google+の方でご指導もいただきました。ありがたき生態系に感謝ですね。

【TAROの日記】

2012/05/10(木) 08:27

資本主義

「資本主義」という普通に使っている言葉は、誰の発明か?・・ということを考えてしまった。
考えても、何の意味もないけれど、こういう普通になってしまった言葉の出自は気になる質なのだ。

しかし、ネットでこういう疑問を調べようとすると、途端に暗礁に乗り上げる。
まったく手がかりがないのだ。

・・と言っても、そんな経験はいつもしているので、ネットに対する期待は最初からない。
ネットはバカの者・・みたいな本を書いた人がいるけれど、本当にその通りだと思う。
今でも、ちょっと気の利いた言葉を入れれば、検索エンジンには何も引っかからないということは普通にある。
だれもが、自分のこだわり系のことで調べ物をしようとした時に経験することだ。

では、ネットは役立たずかと言えば、いくらかの方向性を示してくれたりすることもある。
ネットだけでは何もできないけれど、補完的役割は大きい。
まー、そんなことは当たり前のことだろう。

しかし、私が、「資本主義という言葉の出自は何?」とSNSなどで問いかけると事情は変わる。
知っている人が答えてくれる可能性が出てくる。

ただし、アメリカか何かの雑誌で、twitterは、世界の人とつながる道具ではなく、近所の人とのつながりを強化する道具だ・・という記事があったように、「私は、誰とつながっているか?」というのが重要になってくる。
言葉を変えれば、「私は、どういうコミュニティーに所属しているか?」というお話である。

ネットワーク理論では、6人で誰でもつながることができる・・となっているけれど、その6人つながりのパワーを日常で使うことはできないから、私たちの現実的なネットワークの階層はそれほど深くはない。

結局、何であろうと、私の生態系・・というのが問われるのだった。

ところで、資本主義。
私の調べでは、1902年に行き着く。
ヴェルナーの著書『近代資本主義』である。

マルクスが「共産党宣言」をしてから54年も経っている。
産業革命からは数えたら遠い未来である。
「資本主義」という言葉は意外に新しい・・・のか?

さて、私がこのことをつぶやくことで、答えが得られるような生態系にいるかどうかはわからない。
そのうち、何かの方法で答えが出る・・という変な確信があるから、それはどっちでもいいと思っている。

ただ、資本主義という言葉は、おそらく、それほど古い言葉ではなく、ある種のでっちあげなのだとは思う。
こういう言葉は便利だが、大事な本質を見逃している可能性が大きいという予感もある。
そんな匂いをかぎ取れれば、作業としては十分なのかもしれない・・。

こんなことも、ヒュイ!とネットで嗅ぎ取れたら楽しいんだけどな・・。

【TAROの日記】

2012/05/09(水) 08:38

生態系

私が、私だけだったら、私は私ではない・・などということを朝から考えてしまった。

あいにく、世の中は、私だけではない。
だから、考えてしまったことは空論だ。

しかし、そんな空論をしてみると、私というものが”自我”だというのは勘違いで、一つの生態系なのだということに気づく。

私は、私という生態系なので、妻とか子供とか部下とか友人とか・・・・いろいろなものが含まれて私なのだ。
そして、その生態系は、開放系だから、いずでも要素の入れ替えが可能で、生態系の中心である私でさえ入れ替わっている。

ところが、その中心である私は閉鎖系だ。
だから、入れ替わりを拒否する。
一部では、この入れ替わり拒否の私を”自我”と呼んでいたりもする。

「世の中は、私の鏡」という考えは世間でよく聞くお話だ。
通常、それを説明しようとすれば、投影あたりが持ち出されることになる。そして、それは、ど真ん中に正しい。
さらに、ツキトゥドゥスあたりを引用すれば、それで十分納得が可能だ。
そこに、私という生態系という考えを持ち込んでみると、もっと納得度が増すと思う。

私の大好きな状況や大嫌いな状況、大嫌いな人物も私の生態系だ。
そして、生態系の要素の入れ替えは可能だ。
生態系は開放系だから、”自我”という勘違いがない限り、可能性も柔軟だ(無限ではない)。

調子が悪いという感覚は、この開放系の閉鎖を意味する。
“自我”と言われるものは、病なのだ。

あくまでも、私は私だ。
こんなことを書いている私は、「忘我」とか「無私」という言葉が嫌いである。
坊主が坊主らしいことを言うのは、正しいと思うが、一般人が坊主みたいなことを言っているのが嫌いである(こうした感情を、自分を棚に上げる・・という)。
あくまでも、大きな”自我”っていうことで、開放系の自我を考えている。

【TAROの日記】

2012/05/08(火) 08:32

そろそろかなー

時間がなくて困りながら、そろそろ、マーケティング関係のコンテンツを作りたいと考えている。

あの10年前くらいの中小企業マーケティング・ブームでは、本当に基本中の基本・・というか小手先のことをチャカチャカとしゃべってコンテンツにしたわけだけど、それ以後、ニーズとこっちのリソースとのバランスがあってないので、個別の相談以外で、マーケティングについて一般論を話すことはあまりなかった。
しかし、景色を見渡すと、そろそろニーズがあるかな?という感じがしてきた。

そこで、ちゃんとしたのを作りたいな~という欲求が出てきた。

ただし、時間は鬼のようにない・・・。
したがって、戯言で終わる可能性は著しく高い。
けれど、そんな気分になってきた・・ということだけご報告。

実は、最近、こうしたコンテンツ化したい気分が各ジャンルにあって、困っている。
やりたい。でも、時間がない・・というループでウロウロしている感じなのだ。

現在、気分と時間の整理中だけど、私が後やる事というのは、チャラチャラしている世の中とさらに距離を置きつつ、特定の人種(この特定の人種という部分には、具体的な言葉が入りますが、ここでは控えます。『組織コミュニケーションセミナー』参加者には自明だと思います)と相互交流を通じながら、昇華している結晶を集めて、本質価値の固まりを組み立てることのような気がしている。

サンバを踊る・・・。世間は、その心の弱さゆえに、さらにサンバを踊るだろう。
それはそれで、普遍なんだと思うし、生き物ってそういうものだ。

しかし、そんな普遍に対して潔くしないから人間なんであって、そんな人間証明をしてみよーという気分は強い。

そうなのだ。別に仕事がどうのこうのではない。
サンバがどうのこうのでもない。
ヒト科の生物が、「科」という重力に逆らおうとする業のお話なのだろうな・・。

【苦しめTAROお仕事LIVE】

2012/05/07(月) 10:05

とても長い出張だったぞ・・

いつの間にか、花が散り(咲いたのも知らないけど・・)、ゴールデンウィークなんてのがあったらしく、全国で自然災害があいついだ・・とか、バスの事故があった・・というニュースも遠く虚ろな感じで知り、原発が全部止まったというニュースにだけ大きく反応し、5月2日の日経新聞に喜び、ながーい、ながーい出張が終わった。

何日間だったか?

17日くらい?

その間、ライブも、映画も、芝居も、落語も見なかったから、さらに長く感じた。

新潟の一番良い時期をほとんど東京で過ごすのもそろそろやめたいよな・・。

でぇ、疲れが凄いので家でふにゅーとしつつ、それなのに、エラク濃い90年代音楽を大音量でかけるものだから、さらにドヨヨーン!!として、外の景色とアンバランスに、「人間ってバカだな−」とバカの代表になった気分で、バカって好き!と思い、お茶でも飲むか・・と考えるのだった。

ここで、「お茶でも飲むか・・」と何年経っても、同じようなことしか考えない自動思考の堅固さをあきらめつつ、「それでも、お茶飲みたいもん!」と思うのだった。

そんな私の前を妻は、「草取りと洋服の入れ替えどっちを先にしようかー」とつぶやいているので、全然大した選択ではないけれど、その大したことのない選択を、人類の究極の選択のように、真剣に一緒に考えてあげるという姿勢で、「そりゃ、草取りでしょう」と言うと、なんだか安心した顔になっているのを見て、んー、人間は大したことなど考える必要などないのだ!と妙に納得するのだった。

あーーーーーーー、休みっていいなーーーーーーーーぁ。

さて、仕事行くか・・。

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